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コラム:なぜ「運動を続ける」を新年の抱負にしてはいけないか

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2023年1月10日

新年あけましておめで湯ございます。

今朝はこれから、地元流山にてサ活です。

お湯に浸かっていると元気が出てきて、新年の抱負でも掲げたくなってきます。

さて、「運動を続ける」を新年の抱負にした事はありますか?

僕はあります。

ところがこれ、多くの人が挫折を経験します。

脳が元気なうちは、まだいいのです。

なかなか「フレッシュな抱負」を「年の瀬」までキープできないんです。

1月と12月、「脳の状態」がガラリと違うわけですが、

「新年の抱負」、せっかくならば自分を肯定する材料にしたい所。

しかしこれでは、無意識のうちに「自己否定の素」になってしまっているかもしれないわけです。

現在、運動習慣が無いのだとしたら、

運動はまず、「やりたくないならやらない」基本的にはこれで大丈夫です。

僕自身、運動のプロになる前にこのジレンマを何度もサイクルしてきました。

「やりたくないからやらない」

これが、日本人はできないわけです。

やろうと決めたのに出来ていない自分がいると、

自分の意志が弱いのか?

ますますそう自分を責めていくわけです。

真理も答えも解らないままプロになり、

これまで、色々なタイプの方のサポートをしてきました。

人間の多様性を感じてきました。

その中で、一つ解ったことがありました。

不思議な事に、「結果的に運動が続く人」は、

運動を続けようとしません。

「運動を続けよう」として運動が続く人はほとんどおらず、

それをするのが楽しくて、永く「結果的に」続いているわけです。

運動を続けたいのだけど、なぜか続かないとしたら、

それは「素材」と「味付け」が違うわけです。

「素材」は運動の種類、「味付け」は取り組み方です。

肉体が本能的にアレルギー反応を起こした結果、脳が続けないという判断を下す。

つまり、「続く」というのは「おいしい」とか「たのしい」とほぼ一緒なわけです。

より直感的なんですね。

そして人間は多様です。

遺伝子、歴史、文化、教育、システム、昨日そして今日。

不変と可変のオートクチュールで丁寧に仕立て上げられた「わたし」。

その「わたしが喜ぶ運動」は「どこかには」必ず存在します。

人間の脳は、運動する為に設計されているからです。

その「続く運動」をご提案するのが、ナヴィーオのお仕事です。

「抱負」とは、心に抱く決意と志の事を指すのです。

そこまでの志があるのなら、もうとっくに運動は続いているはずです。

「特定の運動を続ける」という「無意識に高いハードル」に気づき、

「続けやすい運動を探してみる」という「ゆるくて低いハードル」に設定し直してみてはいかがでしょう。

「わたしが喜ぶ運動」がきっと見つかるはずです。

ナヴィーオ代表

山崎

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