• 080-5062-1716
  • お問い合わせ

メニュー

ホーム > お知らせ&ブログ > 「たのしみ」を阻害するもの

「たのしみ」を阻害するもの

  • LINEで送る
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

2019年9月1日

朝6時、執筆のため外出の準備をする。朝一番は肌寒いので最近買ったお気に入りのフィルメランジェの長袖カットソーに袖を通す。下はまだ短パンで良さそうだ。足元はビルケンシュトックで。少しずつ秋の装いが楽しくなってきました。昨日、かぽえいらであそぼうvol.4が開催されました。参加された皆様、お疲れ様でした!

 

 

 

6月にイベントを立ち上げ、全4回。なにより参加してくれた子供たち、そしてその都度送迎をして頂いた保護者の方に感謝申し上げます。また、場所を提供して頂いている学校関係者の方々、そして共同主催の宮原監督に、お礼申し上げます。このイベントは今後も継続していきたいです。最新情報はFB、インスタでアップしていきます。回を重ねるごとに、自信が確信へと近づきました。おとなもこどもも「あそび」が不可欠なんだと。

 

 

 

このイベントの意義は「あそぶ」ということです。「あそぶ」は誰もが持っている原体験。子供の頃にあそんだことがない人はいません。そもそも「あそぶ」ってなに?「あそび」は本能?「あそびたい」は衝動?「あそび」は混沌、「あそび」はカオス?そうおそらく、本来「あそび」の中にルールや模範はありません。こどもの「あそび」はめちゃくちゃです。だからこそ、未成熟のこどもが公共の場で「あそぶ」と時々大人は怒ります。「あそぶ」は社会のルールに反することがあるからです。人は少しずつ社会性をまなびます。例えば、成熟した誰かが「あそび」の中に「ルール」を取り入れたとします。それが、スポーツです。「あそび」に「ルール」を付け足すとスポーツの原型になるのです。スポーツ以外でも、複雑なルールを学習していくことは社会性につながり、ルールや社会性を教えていくことが教育の役割の一つです。

 

 

 

こどもには、成長曲線があります。早熟の子もいれば、晩熟の子もいます。特に晩熟であったり、未成熟の世代にとって、「スポーツをたのしむ」という行為は、ストレスでしかありません。なぜなら彼らはまだ、「あそびをたのしみたい」からです。「スポーツをたのしむ」ことと「あそびをたのしむこと」は根本的に違います。スポーツなり社会なりのルールを教えることが、おとなの役目の一つです。でも、我々大人たちが「そのルールを教えるのはまだ早いかもしれない」という姿勢を取れるかどうか。あるいは「あえて関与しない」というブレーキを踏めるかどうか。つまり、心の中に「あそび」「カオス」「混沌」を受け入れる余白があるかどうかが、場合によっては、子供の自立を助けたり能力の開花を促すために重要だと感じます。「あそびをたのしみたい」子供に対して「スポーツをたのしませよう」とすることは、実は逆効果なのです。

 

 

 

こどもがあそんでしまったとき、叱ろうとする理由は誰のためだろう?子供のため?世間体のため?自分自身のため?そう自問自答していたいと思いました。「できないことをできるようにする」よりも、「できることをあえてしない」ほうが難しい。「トレーニング」や「人を知ろうとすること」を通じ、その難しさから逃げず、それを受け入れ、難しいと感じている人の気持ちを想像していたいと思います。

 

 

 

「精神と肉体」、「感情と言語」に少しずつの「あそび」を。

「あそび」があると、いつもの風景も少し違って見えてきます。

 

 

 

 

ナヴィーオ代表 山崎

コメントを残す

入力エリアすべてが必須項目です。メールアドレスが公開されることはありません。

内容をご確認の上、送信してください。

ページの先頭へ戻る